森永卓郎 どんな時も全力フルスイング!!

経済アナリスト
Magic pink rhododendron flowers on summer mountain. Carpathian, Ukraine.

日曜の朝『がっちりマンデー』でおなじみの森永卓郎さんが
令和7年1月28日に67歳で亡くなられました。
森永さんの姿を、もう見ることができないのかと思うと非常に残念です。
私たちに多くのことを教えてくださった森永さんの残した足跡について
記すことで、感謝の意を表したいと思います。

卓郎さんの生い立ち

●1957年7月12日東京都目黒区で生まれ。

●父、京一氏は毎日新聞の記者。母と弟の4人で都営アパートに暮らす。
「小学校に入る前の記憶はほとんどない」と話す。

●父の都合で、幼少期をアメリカ、オーストリア、スイスの3カ国で過ごした
帰国子女
であった。

●帰国後の中学生以後は新宿区高田馬場に転居。

●1973年3月  新宿区立落合中学校

●1976年3月  東京都立戸山高等学校卒業。

●1976年4月  東京大学理科二類に入学。

人によっては「華麗な経歴」と受け取れる海外での生活も、卓郎氏にとっては、人生を大きく変えてしまった本当に嫌な経験だったそうだ。

海外生活

最初は 小学1年生 米マサチューセッツ州 ボストン

父がジャーナリストを対象にした留学制度試験に合格しハーバード大に留学

留学生なので、渡航費は本人分のみ。
しかし、父は一家全員を連れて行く。
1ドルが360円の固定相場の時代。飛行機代も相当高かったはず。
両親はこのとき、かなりの借金を負ったと思います。

お金がないとインターナショナルスクールには入れない。
そのため、ボストンの公立小学校に入学
ここで米国人からひどいいじめに遭う。

当時はまだまだ米国人の意識は「リメンバー・パールハーバー」だった。
彼らの名誉のために言っておくと、クラスの中で強烈な人種差別主義者は、
多分1~2割くらい。8~9割はいいやつ。
でも、この1~2割のやつらがこっちを徹底的に攻撃してくる。

学校では、もうボッコボコにやられました。
肉体的にもやられるし、言葉の暴力や無視など行動の暴力も。

 

次は  小学4年生 オーストリアのウィーン

個人的な印象だが、ウィーンの人は本当に陰湿でしたね。
辞書には載っていないような微妙な差別表現があって、それを使う。
「音楽の都で街が美しい」とよく聞くが、私は賛同できない
ここでも友達はまったくできず、孤独でした。

最後は 小学5年生 スイスのジュネーヴ

(スイスのことは多くを語っていないが、察するところ
スイスはドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語と
4つの公用語を持つ国である。
オーストリアのように)現地人とコミュニケーションが取れず
いじめられ、引きこもり状態になったものと思われる。

家にこもってばかりいる卓郎さんを見て、お父さまも不憫に思われたのか
よくミニカーを買い与えてくれたそうです。
この趣味が高じて後の私物博物館「B宝館」設立に至ったのですね。
なんともはや、“好き”の力は偉大です。

引用https://www.msn.com/ja-jp/society-culture-and-history/social-issues/

後に森永氏は『ミニカーからすべてを学んだ』という本を出版している。
悲運としか言いようのない小学生時代に父から買い与えられたミニカー。
それが時を経てもなお心の支えになっていたのなら、良しとしようではないか、
と卓郎さんに伝えたい。

 

経済アナリストとしての発言

●著書などで早くから「年収300万円時代」を予測し、
ほどなくして「ワーキングプア」が社会問題として注目された。

●2000年代後半以降では国民の9割が年収100万円以下になる
「年収100万円時代」を予測。
お金のない人間を「負け組」と呼び、低賃金で大人しく勤勉に
働いてさえいればいいと言って人間性を否定する社会は間違っている
と話す。

●森喜朗政権の頃から、日銀および大蔵省・財務省の政策を一貫して批判。
週刊誌のインタビューで
「私を日銀総裁か財務大臣にしてくれたら、半年で景気回復させます。
もしできなかったら死刑になってもいい」と豪語
し、周囲の者を心配させた。

●著書『萌え経済学』ではオタク文化は日本が世界に誇る独自産業であると主張している。

詳しくはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%B0%B8%E5%8D%93%E9%83%8E

●存命中、共著も含めて100冊以上もの本を世に出した森永卓郎さん
あと30冊は書きたいと話されていたそうだが、がんに冒されていなければ
十分に達せられたであろう。●森永さんが放たれる発言には過激なものも少なからずあったが、
国の経済のことを真剣に考え抜いた上での発言だったろうと思われる。
もっと、森永さんの言葉を聞きたかった。
惜しい人がまた一人逝ってしまわれた。

『がっちりマンデー!!』で見せる笑顔

「極楽とんぼ」の加藤浩次がMCを務めるTBS「がっちりマンデー!!」(日曜前7・30)。
オープニングで加藤さんは
「『がっちりマンデー!!』が20年間、お世話になったあの方の特集でございます
とあいさつ。
進藤晶子アナウンサーは「なぜか20年間、ずっとゲストとしてご紹介しておりましたが…」ともらした。

加藤さんは現在の心境について
「本当にいろいろなことを教わりましたし、なんかこの辺にいそうな感じもするんですよ
…なんか」と吐露した。

★20年にわたる付き合いの中で、

人生っていうのは明るく楽しく生きるべきなんだということ
そしておごらないということ
そしてあきめないってこと

この3つが僕が森永さんから教わったことですねと感謝を述べた加藤さん。
自分の人生が燃え尽きるまで、仕事という自分のやりたいことに賭けるという思い
近くで見させていただたことは本当に勉強になりましたねと話した。

「生き方、人ってこうあるべきだって、僕は教わりましたね」と思いをはせ、
「残念ですけどね。あの若さでっていうのは本当に残念ですけど、森永さんから
いただいた財産を胸に、みんなスタッフ共々頑張っていきましょう」と前を向いた。

最後に森永さんの著書「がん闘病日記」の文章を紹介。

  満開の  一瞬終えた花びらが  最後の力で 湖面漂う    森永 卓郎

詳しくはこちら https://www.msn.com/ja-jp

まとめの”ひとこと”

『がっちりマンデー!!』の中で見せる森永卓郎さんの表情は、いつも笑顔でした。
”大事なことも、くだらないことも全力フルスイング”の信条からくる姿だったのかと
納得した次第です。
亡くなる当日も仕事を入れていらしたそうで、まさに『死ぬまで現役』を
貫かれたのだなとうらやましく思うと同時に、仕事を遊びのように感じられる
というのは、本当に幸せなことだと強く思いました。

人生100年時代という口上はもはや耳慣れてきましたが、何歳まで働ける
だろうかと思うと少々心配になります。
森永さんのように命尽きる、その瞬間まで好きなことに熱中できるもの
皆さま、お持ちでしょうか。
仕事でなくても趣味でもいいから、そういうものを持ち続けていたい、
そう思わせてくれる森永卓郎さんの生きざまでした。
ご家族の方、特に奥さまには頭のあがらないこともなさってきたようですが、
『死んでしまえば最愛の人』と申します。
心のうちで感謝されていますよ、きっと……。

心からご冥福をお祈りいたします。
皆さまも最後まで読んでいただいて有難うございます。

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